渋沢栄一(篤太夫)が大隈重信と面会しました。大隈が八百万の神を例に出して、さすがの栄一も説得されてしまったことは、後に本人が語っています。ドラマではちょっとコミカルな大隈でした。
その後もしばしば大隈とは交流があり、大正10(1921)年10月、アメリカとの融和に尽力する栄一を励まし、「絶対にアメリカと戦争をしてはならない」と言ったのが最後の交流でした。栄一も大隈のことを「平和論者」と述べており、戦後の日本を先取りしていた政治家です。栄一を大抜擢したことも、日本の将来を見すえた上でのことだったと言えるでしょう。早稲田大学を作った先見の明は、ダテではありません。
慶喜が栄一に最後の命令を言い渡すシーンは、架空のお話ですが、非常に見ごたえがありました。平岡円四郎に抜擢されて家臣となってから、これで慶喜との関係は一区切りついた形になります。史実では、明治30(1897)年に慶喜は静岡から東京に転居し、60歳を過ぎて栄一との交流も復活します。かえって若いころよりも、もっと懇意になりました。ドラマでは、後年の描写まであるでしょうか。『渋沢栄一一日一訓』の言葉を引きます。
「私は昔の嫌なことを考えない代わりに、昔の恩は忘れない」(208ページ)
慶喜に対する栄一の態度は、まさにこの言葉どおりでした。なかなか、こんなカッコいいことは言えません。栄一が慶喜にされた「昔の嫌なこと」がなんであったのか、歴史家としては知りたいところですが。
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